ポスト2020生物多様性枠組(GBF)と製造業の未来:政策動向をビジネスインパクトに翻訳する視点
はじめに:生物多様性喪失と企業の向き合い方
生物多様性の喪失は、気候変動と並び、現代社会が直面する最も深刻な環境課題の一つです。この環境変化は、単に生態系の問題にとどまらず、企業活動、特に自然資本への依存度が高い製造業に対し、複雑なリスクと機会をもたらしています。近年、国際的な政策動向として、この生物多様性喪失を食い止めるための明確な枠組が示されました。それが、「昆明・モントリオール生物多様性枠組(Kunming-Montreal Global Biodiversity Framework、以下GBF)」です。
GBFは、ポスト2020の国際的な生物多様性戦略として、今後各国政府や企業に大きな影響を与えることが予想されます。大手製造業のサステナビリティ推進部門の皆様にとって、このGBFが自社の事業やサプライチェーンにどのような要求をもたらし、それが具体的なビジネスインパクトとしてどのように現れるのかを理解することは、喫緊の課題と言えるでしょう。
この記事では、GBFの概要とその企業への関連性、特に製造業にもたらすリスクと機会に焦点を当てます。そして、この政策動向を単なる外部要件としてではなく、事業戦略の中核に取り込み、ビジネスインパクトとして経営層に説明するための視点と実践的なステップについて解説いたします。
昆明・モントリオール生物多様性枠組(GBF)の概要と企業への関連
GBFは、2022年12月に開催された生物多様性条約第15回締約国会議(COP15)で採択された、2030年までの生物多様性に関する世界目標および行動計画です。これは、これまでの愛知目標に代わるもので、生物多様性の損失を止め、回復軌道に乗せる「ネイチャーポジティブ」の実現を目指しています。
GBFは、2050年までに生物多様性のビジョンを実現するための4つの長期目標と、2030年までに達成すべき23のターゲットから構成されています。この中でも、特に企業活動に深く関連し、製造業がその影響を直接的に受ける可能性が高いのがターゲット15です。
ターゲット15は、特に大規模および多国籍企業、金融機関に対して、その事業活動、サプライチェーン、バリューチェーン全体における自然関連のリスク、依存、影響を定期的に評価し、開示することを求めています。また、消費者向けの製品やサービスについても、サプライチェーンの情報開示を促進し、持続可能な消費を可能にする情報提供を奨励しています。
ターゲット15以外にも、以下のようなターゲットが製造業の事業活動に関連します。 * ターゲット4: 農業、水産養殖、林業などの土地利用、海上利用を行う地域において、生物多様性に悪影響を与える速度を半減させ、回復を増大させる。これは、原材料調達における土地利用変化リスクなどに関連します。 * ターゲット14: 生物多様性の多角的価値(生態系サービス、文化、経済的価値など)を意思決定の全てのレベルに統合することを政府や企業の報告書に盛り込む。これは、生物多様性リスク・機会の財務影響評価などに関連します。
これらのターゲットは、各国の政策や法規制、企業の取り組みに具体的な方向性を示すものであり、製造業は自社の事業がこれらの目標達成にどう貢献できるか、あるいはどのような影響を受けるかを検討する必要があります。
GBFが製造業にもたらすビジネスインパクト:リスクと機会
GBFは、製造業にとって避けて通れない新たな外部環境要因となります。この枠組によって生じる変化は、事業継続性や競争力に直接影響を与える可能性があり、リスクと機会の両面で捉えることが重要です。
リスク
- 法規制リスク: GBFの目標達成に向けて、各国で生物多様性に関する法規制が強化される可能性があります。例えば、サプライチェーンにおける環境デューデリジェンスの義務化、自然関連情報の強制開示、特定の生物多様性ホットスポットからの調達制限などが考えられます。これらの規制に対応できない場合、事業停止や罰則のリスクが生じます。
- 市場リスク: 消費者や投資家の間で、企業の生物多様性への配慮に対する要求が高まっています。生物多様性に配慮しない企業は、ブランドイメージの低下、製品やサービスの不買、投資の引き揚げといったリスクに直面する可能性があります。
- サプライチェーンリスク: 原材料の産地における生態系破壊や劣化は、物理的な供給途絶リスク、価格変動リスクをもたらします。また、サプライヤーに対して生物多様性保全に関する取り組みを求める声が高まることで、サプライチェーン全体での対応コスト増加や、対応できないサプライヤーからの調達リスクが生じます。
- 物理的リスク: 生態系サービスの劣化(例:水質浄化機能の低下、受粉機能の低下)は、製造プロセスに必要な水の不足や、農産物などの原材料の品質・量に影響を与え、生産活動に支障をきたす可能性があります。
- レピュテーションリスク: 生物多様性に悪影響を与える事業活動やサプライチェーンにおける問題が明らかになった場合、社会からの批判や非難を招き、企業全体の信頼性が失われるリスクがあります。
機会
- 新たなビジネス創出: 生態系に配慮した製品設計、製造プロセス、循環型ビジネスモデルの開発は、新たな市場ニーズに応える機会となります。例えば、自然素材の持続可能な利用、生物模倣技術(バイオミミクリー)を活用したイノベーション、ネイチャーベースドソリューション(NbS)に関連する事業などが考えられます。
- ブランド価値向上と競争優位性の確立: 生物多様性保全への積極的な取り組みは、企業の信頼性とブランドイメージを高め、差別化要因となります。特に、環境意識の高い消費者層や投資家からの評価を高め、競争優位性を確立する機会となり得ます。
- サプライチェーンのレジリエンス強化: サプライヤーと連携して生物多様性リスクを管理し、生態系保全に取り組むことは、安定した原材料調達を可能にし、サプライチェーン全体のレジリエンスを高めることに繋がります。
- 資金調達へのアクセス向上: 生物多様性への配慮は、サステナブルファイナンス市場においてポジティブな評価を得る要因となります。投資家や金融機関からの資金調達において有利な条件を引き出せる可能性があります。
- イノベーションの促進: 生物多様性課題の解決に向けた取り組みは、新たな技術開発やプロセス改善を促進し、企業全体のイノベーション能力を高める機会となります。
製造業がGBFへの対応で取り組むべき実践的ステップ
GBFの要求に応え、リスクを管理し機会を捉えるためには、体系的なアプローチが必要です。大手製造業のサステナビリティ担当者の皆様が、経営層への説明も視野に入れつつ、実践的に取り組めるステップを以下に示します。
ステップ1:現状評価と目標設定
まず、GBFのターゲット、特にターゲット15の内容を深く理解し、自社の事業活動、サプライチェーン、バリューチェーンとの関連性を特定します。次に、生物多様性への依存度と影響度を評価します。
- 依存度・影響度評価: 自社の事業活動(工場での水利用、土地利用、排出物など)や、原材料調達、製品使用、廃棄といったサプライチェーン全体において、どのような生態系サービスに依存しているか、またどのような影響を与えているかを洗い出します。この際、TNFD(自然関連財務情報開示タスクフォース)などのフレームワークで示される評価プロセス(LEAPアプローチなど)が有効です。
- 目標設定: 評価結果に基づき、自社の生物多様性関連目標を設定します。GBFのターゲット15など、国際的な目標との整合性を図ることが重要です。例えば、「2030年までにサプライチェーンにおける生物多様性影響を〇%削減する」「特定の重要地域からの調達方針を策定する」といった具体的な目標を設定します。
ステップ2:リスク管理と機会の特定
評価結果を踏まえ、特定された生物多様性関連のリスクと機会を分析し、具体的な対応策を検討します。
- リスクの優先順位付けと対策: 評価されたリスクについて、発生可能性や事業への影響度に基づいて優先順位を付けます。優先度の高いリスクに対し、回避、低減、移転、受容といった対策を策定・実行します。例えば、特定の原材料の調達先におけるリスクが高い場合、サプライヤーへの働きかけ、代替調達先の検討、アグロフォレストリーなどの持続可能な生産方法への転換支援などが考えられます。
- 機会の特定と戦略策定: 特定された機会について、事業戦略への組み込み可能性や期待されるリターンを評価します。新たなビジネスモデル開発、製品イノベーション、サプライチェーンの協働強化など、具体的な機会追求のための戦略を策定します。
- サプライチェーン全体での協働: 製造業の生物多様性への影響の多くはサプライチェーンで発生します。サプライヤーとの対話や協働を通じて、生物多様性リスクの評価、情報共有、共同でのリスク低減策の実行を進めることが不可欠です。
ステップ3:情報開示とコミュニケーション
GBFのターゲット15が強く求めるように、自然関連情報の開示は不可避の流れとなります。また、社内外のステークホルダーとの適切なコミュニケーションは、信頼構築と取り組み推進のために重要です。
- 自然関連情報開示への対応: TNFDの推奨に基づき、自社の自然関連のガバナンス、戦略、リスク管理、指標・目標に関する情報を開示する準備を進めます。評価した依存度・影響度、特定したリスク・機会、設定した目標とその進捗などを具体的に開示することが求められます。
- 経営層への効果的な説明: サステナビリティ担当者にとって重要な役割の一つが、これらの専門情報を経営層が理解できるよう、ビジネスインパクトの視点から翻訳して伝えることです。GBF対応が、単なるコストではなく、法規制遵守、リスク回避、競争力強化、新たな収益機会創出といった企業価値向上にどのように貢献するのかを、具体的なデータや事例を交えて説明することが説得力を高めます。例えば、サプライチェーンリスク低減が生み出す事業継続性の向上価値や、ネイチャーポジティブ製品が獲得しうる市場シェアなどを財務的な側面も踏まえて提示します。
経営層への説明と社内浸透
GBFへの対応を全社的な取り組みとするためには、経営層の理解とコミットメントが不可欠です。サステナビリティ担当者は、以下の点を意識して説明を行うことが有効です。
- 経営課題としての位置づけ: GBF対応が、単なる環境問題やCSR活動ではなく、企業の存続と成長に直結する経営課題であることを明確に伝えます。気候変動リスクと同様に、生物多様性リスクも財務的な影響を持つことをデータで示します。
- リスクと機会のバランス: 潜在的なリスク(法規制違反、事業継続性の危機など)だけでなく、取り組みによる機会(ブランド価値向上、イノベーション、サプライチェーンのレジリエンス強化など)を具体的に示し、投資対効果の視点も提供します。
- 国内外の動向: 国際的な政策動向(GBF)、各国の法規制、競合他社の取り組み、投資家の要求といった外部環境の変化を共有し、対応の必要性と緊急性を訴えます。
- 自社への具体的な影響: 抽象的な議論ではなく、自社の事業ポートフォリオ、主要な原材料、主要な生産拠点・市場といった具体的な要素に生物多様性リスク・機会がどのように影響するかを、評価結果に基づいて詳細に説明します。
経営層の理解を得ることで、必要なリソースが確保され、部署横断的な連携が進み、GBF対応が企業文化として根付いていくことが期待できます。
まとめと今後の展望
昆明・モントリオール生物多様性枠組(GBF)は、生物多様性喪失という地球規模の課題に対して、国際社会が共有する明確な目標と行動の枠組を示しました。特にターゲット15は、製造業を含む企業に対して、自然関連のリスク・機会の評価と開示、そして事業活動やサプライチェーンにおける影響の低減を強く求めています。
これは、製造業にとって法規制、市場、サプライチェーンなど多様なリスクをもたらす一方で、新たなビジネス機会の創出、ブランド価値向上、サプライチェーンのレジリエンス強化といった機会をもたらすものです。GBFへの対応は、単なる外部からの要請に応えるだけでなく、企業価値を持続的に向上させるための戦略的な取り組みとして捉える必要があります。
サステナビリティ担当者の皆様には、GBFの要求を深く理解し、自社の事業とサプライチェーンにおける生物多様性関連のリスクと機会を具体的に評価すること、そしてこれらの知見をビジネスインパクトの視点から整理し、経営層をはじめとする社内外のステークホルダーに効果的に伝えることが求められます。この取り組みを通じて、生物多様性の保全に貢献すると同時に、企業の持続可能性と競争力を高めていくことが期待されます。GBFを羅針盤として、ネイチャーポジティブな未来に向けた変革を推進していくことが、製造業の重要な責務となるでしょう。