「ネイチャーポジティブ」戦略が製造業にもたらす機会:リスク低減と事業価値向上に向けた実践
はじめに:生物多様性リスクを超えて、「ネイチャーポジティブ」へ
生物多様性の喪失は、気候変動と並び称される地球規模の環境課題であり、企業経営においても無視できないリスクとして認識が高まっています。原材料の調達、水資源の利用、安定した生態系サービスへの依存など、多くの事業活動が自然資本に支えられているからです。特に製造業においては、複雑なサプライチェーンを通じて、国内外の自然環境への影響が不可避であり、物理的リスク、移行リスク、レピュテーションリスク、法規制リスクといった多様な形で事業継続性や収益性に影響を与える可能性が指摘されています。
こうしたリスクへの対応に加え、近年注目されているのが「ネイチャーポジティブ(Nature Positive)」という考え方です。これは、生物多様性の喪失を止め、2030年までに回復軌道に乗せることを目指す国際的な目標であり、単なるリスク回避に留まらず、自然資本の回復・再生を通じて新たな事業機会や長期的な価値創出に繋げる視点を含んでいます。本稿では、製造業がネイチャーポジティブ戦略をどのように捉え、実践していくべきかについて、具体的な機会とステップを解説いたします。
ネイチャーポジティブとは何か
ネイチャーポジティブとは、「自然に良い影響を与える」ことを意味し、具体的には人間活動が生態系や生物多様性に与える悪影響を排除・低減し、さらに積極的に自然資本を回復・再生させることを目指す概念です。2022年に採択された「昆明・モントリオール生物多様性枠組(GBF)」では、2030年までに生物多様性の損失を止め、回復軌道に乗せるという「ネイチャーポジティブ」な世界の実現が掲げられています。
企業にとって、ネイチャーポジティブへの貢献は、単なる社会貢献活動ではなく、持続可能な経営を実現し、将来にわたる事業機会を確保するための重要な戦略的位置づけを持つようになっています。これは、生物多様性リスクへの対応を包含しつつも、より積極的で攻めの姿勢を示すものです。
製造業におけるネイチャーポジティブ戦略がもたらす機会
製造業は、素材の調達、製造プロセス、製品の使用、廃棄といったバリューチェーン全体を通じて自然資本との関わりが深く、その影響も大きいセクターです。それゆえに、ネイチャーポジティブへの取り組みは、リスク低減だけでなく、多様な機会を創出する可能性を秘めています。
- サプライチェーンにおける安定化と効率化: 原材料の持続可能な調達への転換や、土地利用・水利用に関する生態系への配慮は、サプライチェーンにおける将来的な資源枯渇リスクや価格変動リスクを低減します。また、生態系が提供する自然の機能(水源涵養、土壌保全など)の維持・向上は、インフラへの依存度を減らし、オペレーションの効率化に繋がる可能性も指摘されています。
- 製品・サービスの差別化と新たな市場機会: 生態系に配慮した設計(エコデザイン)や、再生可能資源、バイオ素材の活用は、環境意識の高い消費者やビジネス顧客からの選好を高め、製品の差別化に繋がります。また、自然資本の回復・再生に貢献する技術やサービスは、新たな市場を創造する可能性も持ち合わせています。
- レピュテーション向上とブランド価値の強化: 生物多様性や自然資本に対する責任ある姿勢を示すことは、企業の信頼性を高め、ブランドイメージを向上させます。これは、顧客、投資家、従業員、地域社会といった多様なステークホルダーからの評価に影響し、企業の無形資産価値を高める要因となります。
- 優秀な人材の確保と従業員のエンゲージメント向上: 環境問題への貢献意欲を持つ人材にとって、ネイチャーポジティブに取り組む企業は魅力的な就職先となります。また、従業員自身が自社の取り組みに誇りを感じることは、エンゲージメントや生産性の向上に繋がります。
- 規制強化への対応と政策インセンティブの活用: 生物多様性に関する法規制や政策は今後強化されていくと予測されます。ネイチャーポジティブへの先行的な取り組みは、これらの規制へのスムーズな対応を可能にし、また、自然保護・再生に関連する補助金や税制優遇といった政策インセンティブを活用できる機会を生み出す可能性もあります。
ネイチャーポジティブ戦略の実践に向けたステップ
製造業がネイチャーポジティブ戦略を推進するためには、以下のステップを検討することが有効です。
- 自然資本との関わりの評価: まず、自社の事業活動(直接的な操業に加え、サプライチェーン全体)が自然資本や生物多様性にどのような影響を与えているか、また、事業がどのような生態系サービスに依存しているかを評価します。この際、TNFD(自然関連財務情報開示タスクフォース)フレームワークにおけるLEAPアプローチ(Locate, Evaluate, Assess, Prepare)のような既存の枠組みが参考になります。拠点やサプライヤーが存在する地域における生物多様性の状況、水資源リスク、土地利用状況などを特定することが第一歩です。
- 目標設定: 評価結果に基づき、生物多様性への悪影響を低減し、自然資本を回復・再生させるための具体的な目標を設定します。SBTN(Science Based Targets for Nature)のような科学的根拠に基づいた目標設定フレームワークも開発されており、これを参考にすることで、より効果的な目標設定が可能になります。目標は、回避(Avoid)、低減(Reduce)、再生(Regenerate)、回復(Restore)といった階層的なアプローチを考慮して設定することが重要です。
- 具体的な施策の実行: 設定した目標達成に向け、具体的な施策を実行します。これには、持続可能な原材料調達方針の策定と実施、製造プロセスにおける水使用量や廃棄物の削減、事業所の敷地内や近隣地域における生態系保全活動への参画、製品設計における再生材・バイオ素材の積極的活用、サプライヤーとの協働による環境負荷低減などが含まれます。サプライチェーン全体での取り組みは特に重要であり、トレーサビリティの向上やサプライヤーへの働きかけが求められます。
- モニタリングと評価: 実施した施策の効果を定期的にモニタリングし、目標達成に向けた進捗を評価します。自然資本や生物多様性の変化を測定するための指標設定やデータ収集が不可欠です。
- 情報開示とコミュニケーション: ネイチャーポジティブへの取り組み状況や目標達成に向けた進捗を、投資家、顧客、地域社会を含むステークホルダーに対して透明性高く開示します。TNFDなどの開示フレームワークに沿った情報提供は、企業の信頼性を高め、評価を得る上で有効です。
まとめ:ネイチャーポジティブを経営戦略の中核に
生物多様性の喪失は、単なる環境問題ではなく、企業にとって複合的なリスクと機会をもたらす経営課題です。特に製造業においては、バリューチェーン全体での自然資本への依存と影響が大きいからこそ、ネイチャーポジティブへの取り組みは、リスク回避の枠を超え、持続可能な成長と事業価値向上を実現するための重要な戦略となり得ます。
ネイチャーポジティブ戦略の実践は容易ではありませんが、自社の事業活動と自然資本との関わりを正確に把握し、科学的根拠に基づいた目標を設定し、サプライチェーンを含む具体的な施策を着実に実行し、情報開示を通じてステークホルダーとの対話を深めることが、将来にわたる企業のレジリエンスと競争力を高める鍵となります。生物多様性への貢献を経営戦略の中核に据えることが、これからの製造業に求められる姿勢と言えるでしょう。