未来リスク Insight

主要生態系(森林、海洋、湿地)劣化が製造業サプライチェーンにもたらすリスク:評価と対策の視点

Tags: 生態系劣化, サプライチェーン, 生物多様性リスク, 製造業, リスク評価

はじめに:サプライチェーンと不可分な主要生態系の健全性

生物多様性の喪失とそれに伴う生態系の劣化は、もはや遠い環境問題ではなく、企業の事業継続や収益性に直接影響を与える重要な経営リスクとして認識されています。特に、製造業においては、原材料の調達から製品の製造、輸送、販売に至るサプライチェーン全体が、様々な形で自然環境、中でも主要な生態系(森林、海洋、湿地)の機能と恩恵に依存しています。これらの生態系の劣化は、サプライチェーンを通じて事業に物理的な影響、移行リスク、レピュテーションリスクなど多岐にわたる影響をもたらす可能性があります。

大手製造業のサステナビリティ推進担当者の皆様は、このような生物多様性リスクが自社事業やサプライチェーンに与える具体的な影響をどのように評価し、経営層に分かりやすく説明するかに課題を感じていることと存じます。また、専門的な生態系情報をビジネスインパクトに翻訳する難しさや、信頼できる実践的な情報の不足もご懸念かもしれません。本稿では、主要な生態系(森林、海洋、湿地)の劣化が製造業サプライチェーンにもたらす具体的なリスクに焦点を当て、その評価と対策に関する実践的な視点を提供いたします。

各主要生態系と製造業サプライチェーンの関連性・リスク

製造業のサプライチェーンは、様々な資源やサービスをこれらの主要生態系から得ています。それぞれの生態系が劣化することで発生しうるリスクは、業種やサプライチェーンの構造によって異なります。

森林生態系の劣化

森林は、木材やパルプといった直接的な原材料の供給源であるだけでなく、水資源の涵養、土砂災害の防止、炭素吸収・貯留といった生態系サービスを提供しています。 森林劣化(例:違法伐採、過剰な開発、森林火災の増加)は、製造業サプライチェーンに以下のようなリスクをもたらします。

製紙業、木材加工業はもちろん、食品・飲料産業(パッケージ)、アパレル産業(レーヨンなどの繊維)、建築・建設関連産業など、幅広い製造業が森林生態系と深く関わっています。

海洋生態系の劣化

海洋は、水産資源の供給源、海上輸送の基盤、気候調節機能、特定の化学物質(例:海藻由来の原料)の供給源など、多岐にわたる生態系サービスを提供しています。 海洋劣化(例:海洋汚染、過剰漁獲、海水温上昇や海洋酸性化)は、製造業サプライチェーンに以下のようなリスクをもたらします。

水産食品加工業はもちろん、プラスチック製品製造業、化学産業、物流業、自動車産業(海上輸送)、エレクトロニクス産業(冷却水利用)など、様々な製造業が海洋生態系と関連しています。

湿地生態系(淡水系含む)の劣化

河川、湖沼、湿原、地下水などは、農業用水、工業用水、飲料水といった水資源の供給源として極めて重要です。また、水質浄化、洪水調節、生物多様性の宝庫としての機能も持ちます。 湿地劣化(例:埋め立て、汚染、過剰取水、気候変動による乾燥化)は、製造業サプライチェーンに以下のようなリスクをもたらします。

食品・飲料産業、繊維産業、パルプ・製紙産業、化学産業、エレクトロニクス産業、半導体産業など、水を多量に利用する業種は特に湿地生態系からの水供給に大きく依存しており、そのリスクは深刻です。

生態系劣化リスクの評価と管理の実践

これらの生態系劣化リスクを事業リスクとして捉え、適切に評価・管理するためには、サプライチェーン全体での情報収集と分析が不可欠です。

サプライチェーンにおける依存度・影響度の評価

まず、自社のサプライチェーンが特定の生態系やその生態系サービスにどのように依存しているか、また事業活動がそれらの生態系にどのような影響を与えているか(デンドログラム、バリューチェーンマッピングなどを用いて可視化します。次に、リスクの発生源となる地理的な「ホットスポット」を特定します。特定の森林地帯からの木材調達、特定の水源域からの水利用、特定の漁場からの水産物調達などが該当します。

評価にあたっては、単に自社工場や一次サプライヤーだけでなく、さらに遡った原材料の生産地や採取地に焦点を当てることが重要です。信頼できる情報源として、衛星データによる森林被覆の変化、公的機関が発表する水資源データ、NGOによる特定の生態系に関する調査報告書、学術研究論文などが参考になります。例えば、WWFなどの環境NGOは、特定の地域における生態系リスクに関する詳細な報告書を公表している場合があります。

リスクのビジネスインパクトへの翻訳

特定した生態系劣化リスクが、具体的に事業にどのような影響を与えるかを評価します。これは、単に環境問題として捉えるのではなく、財務的な影響やオペレーションへの影響として翻訳することが経営層への説明において鍵となります。

考えられるビジネスインパクトの例: * コスト増加: 原材料価格の高騰、水処理コストの増加、法規制遵守コスト、サプライヤー変更コスト、生態系回復事業への投資。 * 収益減少: 生産停止や減産による販売機会損失、ブランド価値低下による売上減少。 * 資産価値低下: 環境問題に起因する訴訟リスクや罰金、地域社会との関係悪化による事業所の操業リスク。 * 事業継続への影響: サプライヤーの事業停止、物理的災害による物流網の遮断。

このようなビジネスインパクトを評価するためには、事業部門、調達部門、法務部門、財務部門など、社内の関係部署と連携し、リスクシナリオに基づいた分析を行うことが有効です。

リスクの管理と低減策

リスクを特定・評価した後は、それらを管理・低減するための対策を講じます。サプライチェーンにおける生態系リスク管理は、自社だけでなくサプライヤーとの協働が不可欠です。

主な対策例: * 持続可能な調達方針の策定と実施: 違法伐採された木材、過剰漁獲された水産物、環境負荷の高い農業生産物などの調達を排除する方針を明確にし、サプライヤーに遵守を求めます。トレーサビリティシステムの導入や、持続可能性認証(FSC, MSC, ASCなど)の取得を奨励・要求することも有効です。 * サプライヤーとのエンゲージメントとキャパシティビルディング: サプライヤーに対し、生態系リスクに関する情報提供や技術支援を行い、サプライヤー自身の管理能力向上を支援します。共同で生態系保全・回復プロジェクトを実施することも考えられます。 * 地域社会・NGOとの連携: リスクの発生源となる地域における生態系保全活動や水資源管理イニシアティブに参画したり、地域NGOやコミュニティとの対話を通じて課題解決を図ったりします。水源涵養林の保全活動や漁業資源管理への協力などがこれに該当します。 * 技術革新と代替: 生態系への負荷が少ない原材料への転換、資源効率の高い生産プロセスの導入、水の再利用システム構築など、技術的な解決策を検討・実施します。

これらの管理策は、TNFD(自然関連財務情報開示タスクフォース)の推奨するLEAPアプローチ(Locate, Evaluate, Assess, Prepare)などのフレームワークに沿って体系的に進めることが、社内外への説明責任を果たす上でも有効です。LEAPアプローチのLocate段階では、特にサプライチェーン上の地理的な依存・影響を特定することが重視されており、本稿で述べた主要生態系に関する情報が役立ちます。

結論:主要生態系への配慮は製造業の新たな競争力に

主要生態系(森林、海洋、湿地)の劣化は、製造業のサプライチェーンを通じて、原材料調達、生産活動、物流、さらには企業のレピュテーションや財務状況にも深刻な影響を及ぼしうる重要な経営課題です。これらのリスクを適切に評価し、管理するためには、サプライチェーンの奥深くまで遡り、生態系への依存度と影響度を詳細に分析する必要があります。

評価においては、リモートセンシングデータや信頼できる専門機関の報告書などのデータ活用、そして地域社会やNGOからの情報収集が不可欠です。そして、特定されたリスクを単なる環境問題ではなく、コスト増、収益減、事業継続困難といった具体的なビジネスインパクトとして翻訳し、経営層に説明することが重要です。

持続可能な調達、サプライヤーとの協働、地域社会との連携といった対策は、リスクを低減するだけでなく、サプライチェーンのレジリエンス強化、新たなビジネス機会の創出、そして企業のブランド価値向上にも繋がります。生態系保全に配慮した事業活動は、変化する市場や社会からの期待に応え、製造業が将来にわたって持続的に発展していくための新たな競争力となるでしょう。今後も、最新の研究や評価フレームワークの動向を注視しつつ、継続的なリスク評価と対策の改善を進めていくことが求められます。