気候変動と生物多様性の連関リスク:大手製造業が考慮すべき事業影響と統合的評価の視点
はじめに:複合する環境変化と企業の課題
今日、企業が直面する環境関連リスクは、気候変動と生物多様性喪失という二つの主要な危機が同時に進行し、互いに影響し合う形で増大しています。大手製造業のサステナビリティ担当者の皆様におかれましては、これらの複雑に絡み合ったリスクが、自社の事業活動や広範なサプライチェーンにどのような具体的な影響を及ぼすのかを評価し、経営層に対してその重要性を説明する必要に迫られていることと存じます。
特に、気候変動リスク評価に関する知見やツールが蓄積されつつある一方で、生物多様性リスク、さらに気候変動と生物多様性の「連関リスク」という複合的な課題への対応は、多くの企業にとって新たな、かつ評価が難しい領域となっています。本稿では、この気候変動と生物多様性の連関が企業にもたらす複合的なリスクに焦点を当て、その具体的な事業影響、そしてリスクを統合的に評価・管理するための視点について解説します。
気候変動と生物多様性の連関メカニズム
気候変動と生物多様性喪失は、単に並行して起こる環境問題ではなく、互いを悪化させるフィードバックループを形成しています。
例えば、気候変動による気温上昇や異常気象の頻発は、特定の地域の生態系に急激な変化をもたらし、生物種の生息環境を破壊したり、種の絶滅リスクを高めたりします。IPCC(気候変動に関する政府間パネル)とIPBES(生物多様性および生態系サービスに関する政府間科学政策プラットフォーム)の合同報告書などでも、気候変動が生物多様性喪失の主要なドライバーの一つであることが指摘されています。
一方で、健全な生態系は気候変動を緩和する重要な役割を担っています。森林や海洋、湿地などの生態系は、大気中の二酸化炭素を吸収・貯蔵する「自然のインフラ」として機能します。生物多様性の喪失は、これらの生態系が持つ炭素吸収能力や気候変動への適応能力を低下させ、結果として気候変動をさらに加速させることになります。
この相互作用は、物理的な環境変化だけでなく、それらに依存する社会システムや経済活動にも複合的な影響を及ぼします。
企業にとっての具体的な連関リスクと事業影響
気候変動と生物多様性の連関は、企業に対して以下のような複合的なリスクをもたらします。
1. 物理的リスクの増幅
気候変動による異常気象(洪水、干ばつ、熱波など)は、生態系が健全であればその衝撃をある程度吸収・緩和することができます。しかし、生物多様性の喪失により生態系のレジリエンスが低下している地域では、異常気象の被害がより深刻化する可能性があります。
- 水リスクの増大: 気候変動による降水パターンの変化に加え、森林伐採や湿地の劣化(生物多様性喪失の一因)は、水源地の保水能力や水質浄化機能を低下させます。これにより、製造業にとって不可欠な工業用水や冷却水の供給が不安定になったり、水処理コストが増加したりするリスクが高まります。ある食品製造業の事例では、水源地の森林劣化が事業継続リスクとして認識されています。
- 自然災害リスクの増大: 沿岸部の生態系(マングローブ、サンゴ礁など)や内陸部の森林は、高潮や洪水、土砂崩れなどの自然災害に対する緩衝材として機能します。これらの生態系が気候変動や開発により劣化すると、物理的なインフラや工場資産が直接的な被害を受けるリスクが増大します。
- 原材料供給の不安定化: 農産物や林産物、水産物など、生態系に依存する原材料は、気候変動と生物多様性喪失の複合的な影響を受けやすくなります。特定の気候条件下で生育する作物の収量減少や品質低下、病害虫の増加、漁獲量の減少などが同時に発生し、サプライチェーンのボトルネックとなる可能性があります。
2. 移行リスクと法規制の強化
気候変動対策と生物多様性保全の両側面からの政策や規制が強化されることで、企業は新たな移行リスクに直面します。
- 炭素関連規制と土地利用規制の連動: 各国・地域で脱炭素化に向けた政策が進む中で、森林破壊防止や生態系保全に関する規制も厳格化される傾向にあります。例えば、製品の生産過程や原材料調達において、森林破壊に関与していないことの証明が求められたり、二酸化炭素排出量削減目標と整合した土地利用計画への転換が求められたりします。欧州連合(EU)における森林破壊フリー製品に関する規制(EUDR)などは、この典型と言えるでしょう。
- 生態系サービスへの課金や損失補填: 将来的に、企業が生態系サービスを利用することへの課金制度が導入されたり、事業活動による生態系への負荷に対して損失補填が求められたりする可能性があります。これは、気候変動に対する炭素価格付けと同様のメカニズムで導入される可能性があり、事業コストの増加につながります。
- 新しい技術・素材への転換圧力: 持続可能な代替素材への転換や、気候変動・生物多様性に配慮した生産技術への投資が加速します。これに対応できない企業は、市場競争力を失うリスクがあります。
3. レピュテーションリスクと消費者・投資家の目線
気候変動対策の遅れや、サプライチェーンにおける森林破壊・汚染といった生物多様性への悪影響は、企業のレピュテーションを著しく損なう要因となります。連関リスクに対する意識の低い企業は、より厳しい目にさらされる可能性があります。
- 「グリーンウォッシュ」批判: 気候変動対策をアピールする一方で、生物多様性への配慮を欠いている場合など、取り組みの一貫性のなさが批判の対象となるリスクです。消費者は、企業全体の環境への取り組みに対して、より統合的な視点を持ち始めています。
- 投資判断への影響: 投資家は、企業の長期的な持続可能性を評価する上で、気候変動と生物多様性の両方のリスクへの対応を重視するようになっています。TNFD(自然関連財務情報開示タスクフォース)などの情報開示フレームワークへの対応状況は、投資判断に影響を与える重要な要素となりつつあります。連関リスクへの対応が不十分な企業は、資金調達コストの増加や投資ポートフォリオからの除外といったリスクに直面する可能性があります。
統合的なリスク評価・管理の視点
これらの複合的な連関リスクに効果的に対応するためには、気候変動と生物多様性のリスクを切り離して考えるのではなく、統合的に評価・管理する視点が不可欠です。
- バリューチェーン全体での依存・影響評価: 自社の事業活動やサプライチェーンが、どのような生態系サービスに依存し、どのような影響を与えているかを、気候変動のレンズを通して再評価することが重要です。例えば、水源地の健全性への依存度と、その水源地が気候変動による干ばつの影響をどの程度受けるか、そしてその地域の森林が生物多様性を維持しているか、といった複数の視点からリスクを分析します。TNFDフレームワークが提唱するLEAPアプローチ(Locate, Evaluate, Assess, Prepare)は、このような依存と影響の特定・評価に有効な手法の一つとなります。
- シナリオ分析の高度化: 気候変動リスク評価で用いられるシナリオ分析に、生物多様性喪失や生態系劣化のシナリオを組み込むことで、より現実的で複合的なリスク評価が可能になります。例えば、「〇℃上昇の気候変動シナリオにおいて、特定の地域で生態系サービス機能が△%低下した場合の原材料供給リスク」といった分析です。国際的な研究機関などが提供する生態系モデルやデータセットを活用することが考えられます。
- 社内連携の強化: サステナビリティ部門だけでなく、調達、製造、研究開発、財務、法務など、関連部署との連携を強化し、連関リスクに関する情報を共有し、統合的な対策を検討する体制を構築することが重要です。経営層に対しては、これらのリスクが財務的な影響(コスト増、収益減、資産価値低下など)にどのように繋がるのかを明確に説明することが求められます。
- ステークホルダーとの協働: サプライヤー、地域社会、NGO、学術機関など、多様なステークホルダーとの対話を通じて、自社だけでは把握しきれない生態系に関する情報やリスク要因を特定し、連携して解決策を検討することも有効なアプローチです。
結論:複合リスクへの対応と今後の展望
気候変動と生物多様性喪失という二つの危機は、密接に連関しており、企業にもたらすリスクは従来の想定を超えつつあります。大手製造業の皆様におかれましては、この複合的な連関リスクを正しく理解し、事業活動への具体的な影響を統合的に評価・管理することが、今後の事業継続性および企業価値向上のために不可欠となります。
TNFDをはじめとする新しい情報開示フレームワークへの対応は、この統合的なリスク評価を進める上での強力な推進力となり得ます。最新の研究や信頼できるデータを活用しながら、自社のバリューチェーン全体で自然関連リスクと気候変動リスクを同時に、そして連関性に着目して評価し、具体的な対策を立案・実行していくことが、今後ますます求められるでしょう。これは容易な道のりではありませんが、先んじて取り組む企業は、新たな機会を獲得し、将来にわたるレジリエンスを強化することができると確信しております。