生物多様性保護を巡る法規制の強化:大手製造業が直面する新たなリスクと対応戦略
はじめに:高まる生物多様性法規制の重要性
近年、地球規模での生物多様性喪失への危機感が強まる中、これを食い止めるための国際的な枠組みや各国の法規制が急速に整備・強化されています。特に、2022年末に採択された「昆明・モントリオール生物多様性枠組(GBF)」は、企業活動が自然に与える影響の透明性向上と、企業による自然への貢献を強く求めており、これを受けた各国の国内法整備が進む見込みです。
大手製造業にとって、こうした法規制の強化は、事業活動やサプライチェーンに直接的・間接的な影響を及ぼす、見過ごせないリスク要因となっています。従来の環境規制に加え、原材料調達から生産、販売、そして製品廃棄に至るバリューチェーン全体にわたる生物多様性への影響評価と管理が求められるようになりつつあります。本記事では、生物多様性保護を巡る法規制の主な動向と、大手製造業が直面する具体的なリスク、そして必要な対応戦略について考察します。
生物多様性に関連する法規制リスクの主な種類と動向
生物多様性に関連する法規制リスクは多岐にわたりますが、大手製造業が特に注視すべき動向には以下のものが挙げられます。
- 森林破壊や生態系破壊に関連するコモディティ規制: 特に欧州連合(EU)における「森林破壊防止規則(EUDR)」に代表される動きです。これは、特定の農産品・林産品(例: 大豆、牛肉、パーム油、木材、コーヒー、カカオ、ゴムなど)やそれらを含む製品のEU市場への上市を、森林破壊や森林劣化を引き起こしていないことを証明するデューデリジェンス義務付けとセットで行うものです。同様の規制導入は他国・地域でも検討されており、これらのコモディティをグローバルサプライチェーンで利用する製造業は、調達方針やトレーサビリティシステムの抜本的な見直しを迫られています。
- 環境・人権デューデリジェンス規制における生物多様性の要素: ドイツの「サプライチェーン・デューデリジェンス法」やEUで検討されている「企業サステナビリティ・デューデリジェンス指令(CSDDD)」のように、企業にサプライチェーン全体での環境・人権侵害リスクの特定・評価・是正措置を義務付ける法規制が増えています。これらの規制において、生物多様性喪失や生態系破壊も重要な環境リスクとして含まれる傾向にあります。企業は、サプライヤーの生物多様性への影響を評価し、必要に応じて是正を促す体制を構築する必要があります。
- 国内法における生物多様性保護の強化: 各国の生物多様性基本法や自然保護関連法が改正され、保護区域の拡大、生態系サービスへの考慮、開発プロジェクトにおける環境アセスメントの強化、外来生物法規制の厳格化などが進んでいます。これは、工場敷地や事業所の立地、開発プロジェクト、資源利用など、国内での事業活動に直接影響を与えます。
- 化学物質規制と生物多様性: 製品に含まれる化学物質が、製造・使用・廃棄の各段階で生物多様性に悪影響を及ぼす可能性に対する規制も強化される傾向にあります。特定の有害物質の使用制限や、製品の環境負荷情報開示が求められる場合があります。
- 自然関連情報開示の義務化: TNFD(自然関連財務情報開示タスクフォース)などのフレームワークに基づいた自然関連情報の開示が、一部の国や地域で義務化される、あるいはそれに準ずる扱いとなる可能性があります。これは直接的なリスク規制ではありませんが、不十分な開示や開示内容の不正確さが、後述するレピュテーションリスクや法規制リスク(不実表示など)につながる可能性があります。
大手製造業が直面する具体的な事業影響
これらの法規制の強化は、大手製造業に以下のような具体的な事業影響をもたらす可能性があります。
- サプライチェーン寸断リスク: 特定の原材料や部品が、新たな法規制の要求を満たせないサプライヤーから供給されている場合、その調達が困難になる可能性があります。特に複雑でグローバルなサプライチェーンを持つ製造業にとって、これは深刻な事業継続リスクとなります。
- コンプライアンスコストの増加: 新たなデューデリジェンスシステムの構築、トレーサビリティの確保、サプライヤーのモニタリング、監査、必要な是正措置の実施などには、相当なコストとリソースが必要となります。
- 製品の市場アクセス制限: 製品が特定の法規制(例: EUDR)に適合しない場合、主要な市場での販売ができなくなる可能性があります。これは売上減少に直結する重大なリスクです。
- 訴訟リスクの高まり: 法規制で義務付けられたデューデリジェンス義務を怠った場合や、環境への影響に関する不実表示があった場合、NGOや市民団体、あるいは競合他社からの訴訟リスクが高まります。近年の海外での事例を見ても、企業が自然破壊に関連する訴訟の対象となるケースが増加しています。
- 操業リスク: 工場や事業所の新設・拡張・操業にあたり、強化された環境アセスメントや保護区域に関する法規制への対応が必要となり、計画の遅延やコスト増加、あるいは操業自体が困難になる可能性があります。
大手製造業のための対応戦略
こうした法規制リスクに対応し、事業のレジリエンスを高めるためには、以下の戦略が考えられます。
- 国内外の法規制動向の情報収集と分析: 関連する法規制の最新動向を継続的に収集し、自社の事業やサプライチェーンへの潜在的な影響を早期に分析する体制を構築します。法務部門、サステナビリティ部門、調達部門などが連携し、定期的に情報を共有・検討することが重要です。
- 生物多様性リスク評価プロセスへの統合: 既存の事業リスク評価やサステナビリティ関連リスク評価のプロセスに、法規制リスクの視点を統合します。TNFDなどのフレームワークを参照しつつ、どの事業活動やサプライチェーンのどの部分が、どのような法規制リスクに晒されているのかを具体的に特定・評価します。
- サプライヤーとの連携強化とデューデリジェンスの実施: サプライヤーに対して、生物多様性に関する方針や期待を明確に伝達し、協力を求めます。必要に応じて、サプライヤーの生物多様性への影響に関する情報収集や監査を実施し、デューデリジェンス義務を果たせる体制を構築します。トレーサビリティの確保も重要な要素です。
- 内部体制の整備: 法規制対応を推進するための横断的な組織体制を構築します。法務、リスク管理、サステナビリティ、調達、製造、研究開発など、関連部署間の連携を密にし、役割分担と責任範囲を明確にします。
- 透明性の高い情報開示: 関連する法規制への対応状況や、生物多様性への影響に関するリスク評価の結果、取り組みなどを、ステークホルダーに対して透明性高く開示します。これはコンプライアンスを示すだけでなく、信頼性向上にも繋がります。
結論:法規制対応を超えた戦略的な取り組みへ
生物多様性保護に関する法規制の強化は、企業にとって新たなコンプライアンス上の要求事項であると同時に、事業継続性や将来の競争力を左右する重要な経営課題となっています。単に法規制を遵守するだけでなく、これを機に生物多様性への影響を最小限に抑え、可能であれば自然資本の回復に貢献するような事業活動への転換を図ることは、レピリエンス強化、レピュテーション向上、そして新たなビジネス機会の創出に繋がります。
大手製造業においては、法規制動向を常に注視し、自社の生物多様性関連リスクを正確に評価し、サプライチェーン全体での実効性ある管理体制を構築することが急務です。これは複雑な課題ですが、部門横断的な連携とサプライヤーとの協力、そして経営層の強いコミットメントによって乗り越えることが可能です。法規制対応を、持続可能な社会と企業の長期的な発展に向けた戦略的な取り組みへと昇華させることが求められています。