大手製造業のための生物多様性目標設定とKPI設定:経営層への説明と事業戦略への統合
生物多様性リスク管理のその先へ:目標設定とKPI設定の重要性
近年、生物多様性の喪失が企業にもたらすリスク(物理的リスク、移行リスク、レピュテーションリスク、法規制リスクなど)への認識が高まっています。大手製造業のサステナビリティ推進部門の皆様におかれましても、これらのリスクが自社の事業活動や複雑なサプライチェーンに与える具体的な影響の評価に取り組まれていることと存じます。
リスク評価は重要な第一歩ですが、その結果を経営層に説明し、具体的な対策を推進していくためには、明確な目標設定と効果的なパフォーマンス管理指標(KPI)の設定が不可欠となります。しかし、「どのような目標を設定すべきか」「目標達成度を測るKPIをどう設計すればよいか」「設定した目標やKPIを経営層にどう説明し、事業戦略に統合するか」といった課題に直面されているケースも少なくないかと存じます。
本記事では、大手製造業の皆様が生物多様性リスク低減、さらには自然関連の機会獲得に向けて、どのように目標を設定し、KPIを管理していくべきかについて、実践的なアプローチと経営層への説明、事業戦略への統合の視点から解説いたします。
なぜ生物多様性に関する目標とKPIが必要なのか
生物多様性に関連する目標とKPIを設定することには、リスク管理の枠を超えた複数のメリットがあります。
- リスクと機会の明確化と優先順位付け: リスク評価で特定された課題に対し、具体的な目標を定めることで、取り組みの方向性が明確になります。同時に、自然資本の保全・回復による機会(例:レジリエンス向上、新市場創出)を捉える上での指針ともなります。
- 経営層・ステークホルダーへの説明責任: 設定した目標とそれに対する進捗をKPIで示すことは、経営層への報告はもちろん、投資家、顧客、NGOといった外部ステークホルダーに対する説明責任を果たす上で強力なツールとなります。これにより、企業の信頼性と透明性が向上します。
- 組織全体の意識向上と連携強化: 明確な目標は、社内の各部門(調達、生産、研究開発、販売など)が生物多様性保全の重要性を認識し、共通の目的に向かって連携を強化する上で寄与します。
- 進捗管理と改善: KPIを用いることで、目標達成に向けた取り組みの進捗を定量的に把握し、必要に応じて戦略や施策を調整することが可能になります。
- 事業戦略への統合: 生物多様性に関する目標を企業の全体戦略や各事業部門の戦略に組み込むことで、サステナビリティが経営の中核として位置づけられ、長期的な企業価値向上に繋がります。
生物多様性目標設定の実践ステップ
生物多様性に関する目標設定は、企業の事業特性やバリューチェーンにおける自然への依存・影響を深く理解することから始まります。
- リスク・機会評価に基づく優先課題の特定: TNFDなどのフレームワークを活用し、自社の事業活動やサプライチェーンにおいて生物多様性が最も密接に関連する領域や、深刻なリスク・大きな機会が存在する領域を特定します。例えば、農産物由来原料の調達、水資源への依存度が高い生産プロセス、土地利用を伴う事業開発などが挙げられます。
- 目標の野心度設定(ネイチャーポジティブとの関連): 喪失を止める「止める(Stop)」、回復させる「回復(Restore)」、賢く利用する「持続可能な利用(Sustainable Use)」、恩恵を分かち合う「便益の共有(Share Benefits)」といった視点や、2030年までの「ネイチャーポジティブ」の実現に貢献するという高い目標設定を検討します。国際的な目標(例:グローバル生物多様性枠組)やSBTNなどの科学的根拠に基づいた目標設定手法(SBTs for nature)も参考になります。
- 具体的な目標の設定: 特定された優先課題と設定した野心度に基づき、具体的な行動目標を設定します。「いつまでに」「何を」「どのレベルで」達成するかを明確にします。目標は測定可能である(後述のKPI設定に繋がる)ことが重要です。
- 例:
- 2030年までに、主要農産物原料の100%を持続可能な認証農場から調達する。
- 2025年までに、自社工場における取水量原単位を2020年比で10%削減する。
- 2030年までに、重要な調達地域における森林破壊ゼロをサプライヤーと協働で実現する。
- 自社事業所および周辺地域において、生態系回復プロジェクトを〇〇ha実施する。
- 例:
- スコープと時間軸の決定: 目標の対象範囲(自社事業所のみか、サプライチェーン全体か、特定の地域かなど)と達成時期を定めます。サプライチェーン全体を対象とする場合、目標設定とデータ収集の難易度が高まるため、段階的なアプローチも有効です。
生物多様性関連KPI設定の考え方と例
設定した目標の達成度を測るためには、適切なKPIを設定する必要があります。KPIは目標と整合性が取れており、定量的または定性的に測定可能であるべきです。
KPI設定においては、以下の観点が参考になります。
- インプット/アウトプット指標: 投じた資源量(例:保全活動への投資額)や、実施した活動の量(例:サプライヤーとのエンゲージメント回数、植林面積)など。
- アウトカム/インパクト指標: 活動の結果として生じた環境変化(例:水質改善度、生物多様性指数、生態系サービスの健全性)、あるいは事業への影響(例:リスク削減額、レジリエンス向上度)など。アウトカムやインパクトの測定は難しい場合が多いですが、事業への関連性を示す上で重要です。
- 事業特性との整合性: 企業の業種、主要な事業活動、バリューチェーン構造によって、設定すべきKPIは異なります。例えば、農業由来原料を多く使用する食品メーカーであればサプライチェーン上の土地利用や水資源に関する指標、化学メーカーであれば排水や排出物による生態系影響に関する指標が重要になるでしょう。
KPI設定の例:
- サプライチェーン関連:
- 主要原料における持続可能な認証取得率(%)
- 高リスク調達地域におけるサプライヤーの生物多様性評価実施率(%)
- サプライヤーとの協働による森林破壊/土地劣化回避面積(ha)
- 生物多様性に関するサプライヤー研修参加率(%)
- 事業所・生産プロセス関連:
- 事業所敷地内における生物多様性保全面積(ha)
- 取水量/排水量の原単位(t/単位生産量)
- 特定の有害物質排出量(t/年)
- 生態系サービス健全性に関するモニタリング指標
- 製品・サービス関連:
- 再生資源/持続可能な資源の使用率(%)
- 製品ライフサイクル全体での生態系フットプリント削減率(%)
- 生物多様性配慮型製品の売上比率(%)
- その他:
- 生物多様性関連研究開発への投資額(円)
- 社内従業員の生物多様性に関する意識スコア
- 地域社会との生物多様性保全に関する協働プロジェクト数
これらのKPIは、設定した目標に対する進捗を追跡し、必要に応じてデータに基づいた意思決定を行うために活用されます。
経営層への説明と事業戦略への統合
設定した目標とKPIを単なる環境報告書のためだけに終わらせず、企業経営の中核に位置づけるためには、経営層への効果的な説明と事業戦略への統合が不可欠です。
- 事業価値との関連付け: 生物多様性に関連する目標・KPIが、具体的にどのような事業リスクを低減し、どのような事業機会を創出するのかを、財務的な視点も交えて説明します。例えば、水資源リスクの低減は生産停止リスクの回避やコスト削減に繋がる可能性、生態系回復への貢献は地域社会からの信頼獲得や従業員のエンゲージメント向上に繋がる可能性などです。
- 既存の経営指標との連携: 生物多様性関連のKPIを、既存の財務指標や非財務指標(例:CSR目標、SDGs貢献度など)と連携させて説明することで、経営層の理解を深めることができます。
- 短期・長期の視点: 目標設定が短期的なコスト増加に繋がる場合でも、長期的なリスク低減やレジリエンス強化、競争優位性の確立にどのように貢献するかを丁寧に説明します。
- 意思決定プロセスへの組み込み: 新規事業開発、投資判断、 M&Aなどの意思決定プロセスに、生物多様性への影響や関連リスク・機会を評価する項目を組み込むよう提案します。目標達成に向けた取り組みを、各事業部門の事業計画や予算編成に反映させることも重要です。
- 専門情報のビジネスインパクトへの翻訳: 生態学的な専門用語や複雑なデータの羅列ではなく、それが企業の「リスク」「機会」「コスト」「収益」にどう影響するのか、つまりビジネス言語で語りかけます。
経営層との対話を通じて、生物多様性への取り組みが「コンプライアンスコスト」ではなく「将来への戦略投資」であるという共通認識を醸成していくことが、目標達成と事業戦略への統合の鍵となります。
まとめ
生物多様性喪失は、大手製造業にとって無視できない事業リスクであると同時に、適切に対応することで新たな機会を創出する可能性も秘めています。リスク評価に加え、具体的で野心的な目標を設定し、それを追跡・管理するためのKPIを設計することは、これらのリスクと機会に効果的に対応し、経営層への説明責任を果たし、事業戦略にサステナビリティを統合する上で極めて重要です。
SBTNなどの科学的根拠に基づいた手法や、TNFDフレームワークの示唆を活用しながら、自社の事業特性に合った目標とKPIを設定し、組織全体で取り組みを推進していくことが求められています。これにより、企業は生物多様性保全に貢献しながら、長期的な企業価値の向上と持続可能な社会の実現に寄与することができるでしょう。
今後の企業経営において、生物多様性に関する目標設定とKPI管理は、リスク管理体制の中核的な要素として、ますますその重要性を増していくと考えられます。本記事が、読者の皆様の取り組みの一助となれば幸いです。