生物多様性リスク評価におけるシナリオ分析:不確実な未来への備えと経営戦略への統合
はじめに
近年、生物多様性の損失は、気候変動と並ぶ地球規模の環境課題として認識され、企業経営における重要なリスク要因として注目されています。サステナビリティ推進部門のご担当者の皆様におかれましても、生物多様性の喪失が自社の事業活動やサプライチェーンに与える具体的な影響を評価し、経営層へ説明する必要に直面されていることと存じます。
しかし、生物多様性に関連するリスクは、気候変動リスクなどと比較しても、その発生メカニズムが複雑で地域性が高く、将来的な影響を予測することには大きな不確実性が伴います。例えば、特定の生態系サービスの劣化が、原材料調達コストにいつ、どの程度影響するか、あるいは新たな法規制がいつ、どのような形で導入されるかなどを正確に予測することは困難です。
このような不確実性の高い将来のリスクに備える上で有効な手法の一つが、「シナリオ分析」です。本記事では、生物多様性リスク評価におけるシナリオ分析の意義、その実践ステップ、そして経営戦略への統合について解説いたします。
生物多様性リスク評価におけるシナリオ分析の意義
シナリオ分析は、将来起こりうる複数の状況(シナリオ)を想定し、それぞれの状況下で事業が受ける影響を評価する手法です。気候変動リスク評価においては既に広く活用されていますが、生物多様性リスクにおいても、その重要性が認識され始めています。
なぜ生物多様性リスクにシナリオ分析が有効なのでしょうか。その主な理由は、生物多様性や生態系サービスの劣化が、物理的リスク(例:生態系サービスの喪失による自然災害リスク増大、資源枯渇)、移行リスク(例:新たな法規制、市場の変化、技術革新)、レピュテーションリスク、法規制リスクなど、多様な形でビジネスに影響を与え、かつそれらの影響経路やタイミングが不確実であるためです。
生物多様性の喪失は、多くの場合、非線形的に進行し、ある閾値を超えると急激かつ不可逆的な変化を引き起こす可能性があります。また、影響は地域によって大きく異なるという特性も持ちます。このような複雑で不確実性の高い将来の状況を単一の予測で捉えることは困難であり、複数のシナリオを描くことで、リスクの多様な側面を理解し、より頑健な経営戦略を策定することが可能となります。
シナリオ分析の実践ステップ
生物多様性リスク評価におけるシナリオ分析の一般的なステップは以下の通りです。
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目的設定とスコープ定義:
- シナリオ分析を実施する目的(例:特定の事業ポートフォリオのリスク評価、中長期戦略の検証、開示対応など)を明確にします。
- 評価の対象範囲(例:自社拠点、特定のサプライチェーン、地理的範囲、時間軸など)を定義します。
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主要なドライバーの特定:
- 生物多様性の喪失や変化に影響を与える主要な要因(ドライバー)を特定します。IPBES(生物多様性および生態系サービスに関する政府間科学政策プラットフォーム)の報告書などによれば、主な直接的なドライバーとして、土地利用の変化、生物の直接的採取、気候変動、汚染、侵略的外来種が挙げられます。
- これらのドライバーがどのように相互に影響し合うかを検討します。
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Plausible なシナリオの構築:
- 特定したドライバーに基づき、将来起こりうる説得力のある(plausible)複数のシナリオを構築します。
- よく用いられるシナリオの類型としては、「現状維持シナリオ(Business As Usual)」と、より野心的な「自然資本の回復を目指すシナリオ(Nature Positive Transition)」などがあります。これらのシナリオは、社会経済の動向、政策、技術開発などが生物多様性に与える影響を考慮して具体化されます。
- TNFD(自然関連財務情報開示タスクフォース)の推奨によれば、少なくとも移行リスクに関するシナリオ(例:政策・規制の変更による影響)と、物理的リスクに関するシナリオ(例:生態系劣化による自然災害リスク増大)を考慮することが推奨されています。
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各シナリオ下での事業影響の評価:
- 構築した各シナリオにおいて、特定した事業活動やサプライチェーンがどのような影響を受けるかを評価します。影響は、収益の減少、コストの増加(例:原材料価格の上昇、適応策費用)、資産価値の毀損、操業停止リスク、法規制違反、ブランドイメージ低下など、財務的・非財務的な側面にわたります。
- 評価にあたっては、生物多様性に関するデータ(例:生態系マップ、絶滅危惧種情報、生態系サービスの分布)、事業活動データ、地理情報システム(GIS)などを活用することが考えられます。ただし、生物多様性に関するデータの可用性や解像度には課題がある場合も少なくありません。
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評価結果の解釈と経営戦略への反映:
- 各シナリオでの評価結果を比較分析し、事業が直面するリスクの性質や大きさを理解します。
- シナリオ分析から得られた知見に基づき、リスクを低減するための対策(例:サプライヤーとの協働による土地利用改善、代替原材料への転換、自然を活用したインフラ投資)や、生物多様性関連の新たな機会(例:自然関連技術の開発、グリーン製品・サービス)を特定します。
- これらの対策や機会を、企業の全体的な経営戦略、投資計画、リスク管理プロセス、そしてレジリエンス強化の取り組みへと統合します。
活用できるツールやフレームワーク
生物多様性リスク評価におけるシナリオ分析は、まだ発展途上の領域ですが、いくつかのフレームワークやツールが分析を支援します。
- TNFDフレームワーク: TNFDは、自然関連のリスクと機会を特定、評価、管理、開示するための体系的なフレームワークを提供しており、その中でシナリオ分析の実施を推奨しています。特に、LEAPアプローチ(Locate, Evaluate, Assess, Prepare)の「Assess」フェーズにおいて、将来の状況を考慮するためのシナリオ分析が位置づけられています。
- Science Based Targets for Nature (SBTN): 生物多様性の回復に向けた科学的根拠に基づく目標設定のフレームワークであり、企業が目標達成に向けた道筋を描く上で、将来のシナリオを考慮することが重要になります。
- データソースとモデル: 各地域の生態系情報、生物多様性に関するデータベース(例:IUCNレッドリスト)、土地利用変化予測モデル、気候変動シナリオに基づく物理リスク評価モデルなど、多様な情報源を組み合わせることが必要です。ただし、これらの情報をビジネスインパクトに結びつけるためには、企業独自の分析や専門家の知見が不可欠です。
企業事例と課題
一部の先進的な企業では、気候変動シナリオ分析と連携させる形で、あるいは特定のサプライチェーンを対象に、生物多様性リスクに関するシナリオ分析の試行を開始しています。例えば、農業サプライチェーンを持つ企業が、気候変動と土地利用変化のシナリオ下での水資源や土壌劣化のリスクを評価し、調達戦略の見直しに繋げるといった事例が見られます。
しかし、シナリオ分析の実践にはいくつかの課題が存在します。生物多様性に関するデータの不足や不均一性、将来予測モデルの複雑さ、そして社内外の多様な専門知識(生態学、気候科学、経済学、事業運営など)を結集する必要性などが挙げられます。これらの課題に対し、外部の専門機関との連携や、業界内でのベストプラクティスの共有が有効なアプローチとなります。
結論
生物多様性の喪失は、企業にとって看過できない将来のリスクを内包しています。これらの不確実なリスクに効果的に備え、事業のレジリエンスを高めるためには、単一の予測に依存するのではなく、シナリオ分析を通じて多様な将来像における潜在的な影響を網羅的に評価することが極めて重要です。
シナリオ分析を通じて得られる洞察は、リスク管理体制の強化、適応策や緩和策への投資判断、新たな事業機会の探索、そして経営層やステークホルダーへの説得力ある説明に不可欠な基盤となります。データの限界や分析の複雑さといった課題はあるものの、TNFDをはじめとする国際的な動きもシナリオ分析の重要性を示唆しており、企業が将来のビジネス環境変化に適応し、持続可能な成長を実現するためには、生物多様性リスクに関するシナリオ分析への取り組みを加速させていくことが求められます。
サステナビリティ推進部門の皆様には、この複雑な課題に対し、社内外の専門家と連携し、段階的にでもシナリオ分析の導入を検討されることを推奨いたします。これにより、不確実性の高い未来においても、企業価値の維持・向上に繋がる戦略的な意思決定を支援することが可能となります。