生物多様性リスクの物理的リスクと移行リスク:製造業が把握すべき影響と評価のポイント
はじめに:生物多様性喪失と企業を取り巻くリスク
地球上で進行する生物多様性の喪失は、生態系サービスの低下を通じて、私たちの社会経済活動に深刻な影響を与えつつあります。特に、自然資本への依存度が高い製造業においては、原材料の調達、生産プロセスの維持、サプライチェーンの安定性など、事業の根幹に関わるリスクが顕在化してきています。
このような環境変化によって企業が直面するリスクは多岐にわたりますが、これらを理解し、適切に管理するためには、「物理的リスク」と「移行リスク」という二つの側面から捉えることが有効です。これは、気候変動リスクの文脈で広く認識されている分類ですが、生物多様性リスクにおいても同様に重要な概念となります。
本記事では、生物多様性に関連する物理的リスクと移行リスクの具体的な内容、それらが製造業の事業活動にどのように影響するのか、そしてこれらのリスクを評価し、経営層へ説明する上で押さえるべきポイントについて解説します。サステナビリティ推進に携わる皆様が、自社の生物多様性リスク評価をより具体的に進めるための一助となれば幸いです。
生物多様性に関連する物理的リスクとは
物理的リスクとは、生物多様性の劣化や喪失そのものが直接的に、あるいは生態系サービスの変化を通じて企業資産や事業活動に与える物理的な損害や影響を指します。これは、気候変動による洪水や干ばつといった物理的リスクと類似した概念です。
生物多様性に関連する物理的リスクの主な要因としては、以下のようなものが挙げられます。
- 生態系サービスの喪失・劣化:
- 水資源の枯渇・質の劣化(水源林の荒廃などによる)
- 花粉媒介者(昆虫など)の減少による農産物等の供給不安定化
- 自然災害に対する生態系の防御機能の低下(森林破壊による土砂崩れリスク増加、湿地破壊による洪水吸収能力低下など)
- 土壌劣化による農業・林業資源の生産性低下
- 資源の希少化・供給途絶:
- 特定の生物資源(木材、魚介類、一部の化学品原料となる植物・微生物など)の過剰利用や生息地破壊による枯渇
- 生態系の変化に伴う病害虫の異常発生や外来種の侵入による原材料への被害
製造業においては、これらの物理的リスクがサプライチェーンの上流で顕著に発生し、原材料の価格高騰、供給量減少、品質低下、さらには調達自体の途絶といった形で事業に影響を与える可能性があります。例えば、製紙業における木材資源の持続可能性、食品・飲料業界における農産物や水資源の安定供給、製薬業界における天然由来成分の安定確保などは、生物多様性に関連する物理的リスクに直接的に晒されています。生産拠点における水質汚染や水量減少も、直接的な操業リスクとなり得ます。
生物多様性に関連する移行リスクとは
移行リスクとは、生物多様性喪失に対応するための社会や市場の動き、すなわち政策、法規制、技術、市場、評判(レピュテーション)などの変化に対応する過程で企業が直面するリスクを指します。これは、低炭素経済への移行に伴うリスクと同様の構造を持ちます。
生物多様性に関連する移行リスクの主な要因としては、以下のようなものが挙げられます。
- 政策・法規制の強化:
- 絶滅危惧種の保護や生態系保全に関する新たな法規制の導入(開発制限、資源利用規制、排出基準強化など)
- 生物多様性オフセットに関する義務化や基準変更
- 自然関連の情報開示義務化(例: TNFD)
- 市場・技術の変化:
- 持続可能な方法で生産された原材料や製品に対する消費者や企業顧客の選好度向上
- 生物多様性への負荷が高いとみなされる製品・サービスからの需要シフト
- 生態系保全や再生に関する新技術への対応コスト
- レピュテーション(評判)リスク:
- 事業活動やサプライチェーンにおける生物多様性への悪影響が明らかになった場合の、企業イメージ低下、消費者離れ、不買運動、従業員の士気低下
- NGOや市民からの批判、メディアによる報道
製造業は、これらの移行リスクに対して、新たな法規制への対応コスト増や罰金、製品・サービスポートフォリオの見直し、ブランド価値の毀損といった影響を受ける可能性があります。特に、環境規制が強化されている地域での事業展開や、自然資本への依存度が高い原材料を扱う企業、あるいはサプライチェーン全体での透明性が求められる企業ほど、移行リスクへの対応が急務となります。市場における「グリーンウォッシュ」への厳しい目も、レピュテーションリスクを高める要因となります。
物理的リスクと移行リスクの相互関連性
生物多様性に関連する物理的リスクと移行リスクは、しばしば相互に関連し合い、連鎖的に発生することがあります。例えば、特定の生物資源の物理的な枯渇(物理的リスク)が進むと、それを保護するための新たな法規制が導入されたり(移行リスク - 政策)、代替資源への需要が高まったり(移行リスク - 市場)、企業活動に対する批判が高まったり(移行リスク - レピュテーション)といった形で、移行リスクを誘発する可能性があります。逆に、環境規制の強化(移行リスク - 政策)が、企業による自然保護の取り組みを促し、物理的リスクの軽減に繋がることもあります。
このように、生物多様性リスクを包括的に評価するためには、物理的リスクと移行リスクの両面を考慮し、それらの相互作用や時間軸による変化も視野に入れる必要があります。
事業影響評価と経営層への説明に向けたポイント
生物多様性リスクの事業影響を評価し、経営層へその重要性を説明するためには、以下の点が鍵となります。
- 自社の自然への依存と影響の特定: まず、自社の事業活動(直接事業、アップストリーム/ダウンストリームのサプライチェーン)が、どのような生態系サービスや生物資源に依存しており、どのような影響を与えているかを具体的に特定します。原材料の調達元、生産拠点がある地域の生態系、製品の使用・廃棄段階での影響などを網羅的に洗い出すことが重要です。
- 物理的・移行リスク要因のマッピング: 特定した依存と影響に基づき、自社に関連性の高い物理的リスク(例:水源地の水量減少、特定原材料の供給不安定化)と移行リスク(例:水源地に関する新規制、主要市場における環境配慮製品への需要シフト)を具体的にマッピングします。サプライチェーン全体でのリスク評価が不可欠です。
- 事業活動への具体的な影響の評価: マッピングしたリスク要因が、売上、コスト、資産価値、資金調達、従業員、ブランド価値といった具体的なビジネス指標にどのような影響を与えるかを評価します。定量化が難しい場合でも、影響の質的評価や重要性の順位付けを行います。「〇〇のリスクが顕在化した場合、□□のコストが△△%増加する可能性がある」「特定の原材料調達が困難になれば、××億円規模の事業に影響が及ぶ」のように、ビジネスインパクトとして翻訳することが経営層への説明には不可欠です。
- シナリオ分析の活用: 将来の不確実性を考慮し、複数のシナリオ(例:生物多様性喪失が深刻化するシナリオ、強力な政策対応が進むシナリオなど)に基づき、リスクと機会が時間とともにどのように変化するかを分析します。TNFD(自然関連財務情報開示タスクフォース)フレームワークでも、シナリオ分析の実施が推奨されています。
- 既存のリスク管理体制との統合: 生物多様性リスク評価の結果を、既存のエンタープライズリスク管理(ERM)プロセスやサステナビリティ関連のリスク評価体制に統合し、継続的なモニタリングと管理を行います。
- 機会としての側面の検討: リスク対応の取り組みは、新たな事業機会(例:環境配慮型製品の開発、再生型農業への投資、生態系保全に貢献するビジネスモデル)にも繋がる可能性があります。リスクだけでなく、機会の側面も合わせて検討し、経営戦略との連携を図ることが重要です。
経営層への説明においては、これらの評価結果を専門用語を避けつつ、平易な言葉で、かつ具体的なビジネスインパクト(財務影響、競争優位性、ブランド価値など)として提示することが求められます。単なる環境問題としてではなく、企業の持続的な成長と企業価値向上に不可欠な経営課題であるとの認識を共有することが目標となります。
今後の展望と企業が取り組むべきこと
生物多様性リスクへの対応は、企業のレジリエンスを高め、長期的な価値創造を実現するために避けては通れない課題となっています。特に製造業においては、複雑なサプライチェーンにおける自然資本への依存と影響を正確に把握し、物理的リスクと移行リスクの両面から事業影響を評価することが、喫緊の課題です。
TNFDなどの情報開示フレームワークの導入は、リスク評価と管理のプロセスを加速させる強力な推進力となります。国際的な動向や最新の研究、NGOなどの信頼できる情報源を参照しつつ、自社の事業特性に合わせた実践的なリスク評価を進めることが求められます。
生物多様性の損失を食い止め、回復させるための世界的な目標設定や政策議論が進む中で、企業は自らの事業活動が自然に与える影響を最小限に抑え、さらに自然の回復に貢献する「ネイチャー・ポジティブ」な取り組みへと転換していくことが期待されています。これは、単なるリスク回避ではなく、新たなビジネス機会の創出や競争力の強化にも繋がる重要な経営戦略の一環となるでしょう。
貴社の生物多様性リスク評価と管理の取り組みが、持続可能な社会の実現に貢献するとともに、企業価値の向上にも繋がることを願っております。