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生物多様性リスクを財務視点で捉える:企業価値への影響評価と経営層への説明

Tags: 生物多様性リスク, 財務影響, 企業価値, TNFD, サステナビリティ経営

はじめに:なぜ生物多様性リスクを財務視点で捉える必要があるのか

生物多様性の喪失は、地球規模の環境問題として認識されてきましたが、近年では企業の事業継続性や財務パフォーマンスに直接的な影響を与える重要なリスクとして、経営層や投資家からの注目度が高まっています。かつては「環境部門の課題」と見なされがちでしたが、サプライチェーンの混乱、原材料価格の高騰、新たな法規制、ブランドイメージの毀損といった形で、具体的な社会・経済リスクとして顕在化しつつあります。

特に、大手製造業のサステナビリティ推進担当者の皆様におかれましては、これらの生物多様性関連リスクが自社の事業活動や広範なサプライチェーンに与える影響を正確に評価し、そのビジネスインパクトを経営層に分かりやすく説明する必要に直面していることと存じます。専門的な環境情報を、企業の言語である「財務」の視点に翻訳することの難しさは、多くの企業が抱える共通の課題です。

本稿では、生物多様性喪失が企業にもたらすリスクが、どのようにして企業の財務パフォーマンスや企業価値に影響を及ぼすのかを解説いたします。また、これらの財務影響を評価するための基本的な考え方や、経営層への説明において重要なポイントについても言及し、皆様の実務の一助となる情報を提供することを目的といたします。

生物多様性リスクが企業財務に伝播するメカニズム

生物多様性喪失は、多様な経路を通じて企業の財務状況に影響を及ぼします。主なリスクカテゴリである物理的リスク、移行リスク、レピュテーションリスク、法規制リスクが、具体的にどのような財務項目に紐づくのかを見ていきましょう。

  1. 物理的リスクと財務影響:

    • 自然資本(水、土壌、 pollinationなど)の劣化や喪失は、原材料調達コストの増加や供給不安を引き起こします。これは「売上原価の増加」や「サプライチェーン混乱による売上機会の損失」に直結します。
    • 生態系の変化による異常気象や自然災害の頻発・激甚化は、物理的な設備損壊、生産停止、輸送インフラの麻痺などを招き、「固定資産の減損」「修繕費の増加」「事業中断による収益減」として現れます。
    • 特定の生態系サービス(例: 産業用水源としての河川)への依存が高い事業は、そのサービスの劣化が直接的なコスト増(代替水源確保費用、水処理費用など)や操業リスクに繋がります。

    • 例えば、農業資材を扱う企業であれば、土壌劣化や花粉媒介者の減少が農作物の収穫量に影響し、それが原材料価格の変動リスクとして財務に跳ね返ってくる可能性があります。

  2. 移行リスクと財務影響:

    • 生物多様性保全に向けた政策変更や規制強化(例: 森林破壊禁止、特定の化学物質規制、生態系サービス利用料の導入など)は、新たなコンプライアンスコスト、事業構造転換への設備投資、罰金や課徴金発生リスクに繋がります。これは「営業費用の増加」「特別損失の計上」「投資負担の増加」といった形で財務に影響します。
    • 市場の変化、特に消費者や企業顧客の意識変化により、生物多様性に配慮しない製品やサービスへの需要が減少する可能性があります。これは「売上高の減少」「在庫評価損の発生」として現れます。
    • 技術革新(例: 生物多様性保全に資する代替技術)への対応遅れは、競争力の低下や市場シェアの喪失リスクとなります。

    • ある食品メーカーが、サプライチェーン上の森林破壊に関与していると見なされる原材料の使用規制強化に直面した場合、調達先の変更や新しい調達基準への対応にコストが発生し、これが移行リスクの財務影響となります。

  3. レピュテーションリスクと財務影響:

    • 生物多様性への配慮不足がメディアやNGOに指摘されることは、企業イメージの悪化を招き、消費者離れ、優秀な人材の獲得難、事業パートナーからの敬遠といった影響を生みます。これは「ブランド価値の低下」「売上減少」「採用コスト増加」「資金調達条件の不利化」などに繋がります。
    • 訴訟リスクやステークホルダーからの批判に対応するための法務費用や広報費用も発生し得ます。

    • 例えば、ある建設会社が開発プロジェクトで貴重な生態系を破壊したとして報道された場合、企業評価の低下は、新規プロジェクト受注の減少や株式市場での評価下落といった財務影響を及ぼす可能性があります。

  4. 法規制リスクと財務影響:

    • 生物多様性に関する国内外の法規制(例: 生物多様性条約、各国独自の保護法、サプライチェーンデューディリジェンス義務化など)の強化や新規導入は、直接的なコンプライアンスコスト、罰金、事業停止命令といった財務リスクとなります。

    • 海外の製造拠点で、現地の生物多様性保護法に違反した場合、罰金の支払いや操業停止による収益減という形で財務に影響します。

これらのリスクが組み合わさることで、企業の収益性、キャッシュフロー、資産価値、資金調達コスト、そして最終的な企業価値に複合的な影響を及ぼすことになります。

生物多様性リスクの財務影響評価に向けた基本的な考え方

生物多様性リスクの財務影響を評価することは、その複雑性から容易ではありません。しかし、いくつかの基本的なステップとフレームワークを活用することで、取り組みを開始することができます。

  1. リスク・機会の特定と評価:

    • まず、自社の事業活動やサプライチェーンが、どのような生物多様性ホットスポットと関わりがあるのか、また、どのような生態系サービスに依存しているのかをマッピングします。
    • 特定された依存・影響に基づいて、発生しうる物理的、移行、レピュテーション、法規制リスクを洗い出します。
    • これらのリスクが顕在化した場合、自社の事業活動(調達、生産、販売、研究開発など)やサプライチェーンにどのような影響を与えうるかを評価します。この際、定性的な評価に加え、可能な範囲で定量的な影響額(コスト増、売上減、資産価値下落など)を試算することを試みます。

    • TNFD(自然関連財務情報開示タスクフォース)が提供するLEAPアプローチ(Locate, Evaluate, Assess, Prepare)は、リスクと機会を特定・評価するための体系的なフレームワークとして有効です。Locateで自然との接点を把握し、Evaluateで依存と影響を評価、Assessでリスクと機会を評価、Prepareで対応策と開示を準備するという流れです。

  2. 財務影響への翻訳:

    • 特定・評価されたリスクシナリオが、具体的にどの財務諸表項目(売上高、売上原価、販売費及び一般管理費、設備投資、引当金、資産価値など)に影響を与えるかを分析します。
    • 可能な場合は、影響額を金額換算することを試みます。例えば、「ある原材料の供給不安により、価格が〇〇%上昇するリスク」や、「規制強化により、排出削減設備に〇〇円の投資が必要となるリスク」といった形で具体的に示します。この際、過去の事例、業界平均、専門機関のデータなどを参考にすることも有効です。

    • 環境省が公開している「生物多様性リスク等に関する検討会」の報告書や、CDPなどの開示フレームワークにおける自然関連の質問項目なども、財務影響を考慮する上での参考情報となり得ます。

  3. 開示と報告:

    • 評価結果は、統合報告書やサステナビリティレポートなどを通じてステークホルダーに適切に開示することが求められます。特に、TNFDフレームワークに沿った開示は、投資家をはじめとする金融関係者からの信頼を得る上で重要となります。
    • リスクだけでなく、生物多様性保全・回復への取り組みがもたらす財務的な機会(コスト削減、新規市場開拓、ブランド価値向上、資金調達コストの低減など)についても言及することで、取り組みの重要性をより強調できます。

経営層への説明におけるポイント

生物多様性リスクの重要性を経営層に認識させ、必要な投資判断を引き出すためには、財務的な視点からの説明が不可欠です。

これらのポイントを踏まえることで、専門的な生物多様性の知見を、経営層が理解し、意思決定に活用できる財務・事業リスク情報へと翻訳することが可能となります。

結論:企業価値向上のための統合的アプローチ

生物多様性喪失は、企業の財務パフォーマンスや企業価値に対して無視できない影響を与えるリスク要因となっています。これらのリスクを正確に評価し、財務的な影響を明確にすることで、単なる環境対策に留まらず、企業のレジリエンス強化や持続的な成長に繋がる戦略的な投資判断が可能となります。

サステナビリティ推進担当者の皆様におかれましては、生物多様性に関する専門知識に加え、財務・経営の視点を取り入れ、社内外のステークホルダーとの対話を通じて、この新たなリスクへの対応を進めることが求められています。TNFDをはじめとする開示フレームワークへの対応も、リスク評価と財務影響の翻訳という視点から捉えることで、より実効性の高い取り組みとなるでしょう。

生物多様性リスクの財務的側面の把握は、企業が直面する環境変化への適応力を高め、長期的な企業価値向上を実現するための不可欠なステップであると言えます。今後も最新の情報や評価手法を注視しつつ、自社にとって最適なアプローチを追求していくことが重要となります。