生物多様性データの取得・管理・分析:効果的なリスク評価とビジネスインパクトへの翻訳
はじめに:生物多様性データ活用の重要性と企業の課題
近年、生物多様性の喪失が企業活動に与える影響への関心が高まり、多くの企業が自然関連リスクの評価に取り組んでいます。しかし、この評価を進める上で多くの企業が直面するのが、「信頼できる生物多様性データの不足」「データの断片性」「専門情報のビジネスインパクトへの翻訳の難しさ」といった課題です。
生物多様性データは、企業の事業活動やサプライチェーンが自然環境に及ぼす影響(依存およびインパクト)を客観的に把握し、関連するリスクや機会を特定・評価するための基盤となります。データに基づかない評価は、その信頼性や経営層への説得力に欠ける可能性があります。
本記事では、大手製造業のサステナビリティ推進担当者の皆様が、生物多様性データを効果的に取得・管理・分析し、事業リスク・機会評価、ひいては戦略的意思決定に繋げるための視点を提供します。
生物多様性データの種類とリスク評価における役割
生物多様性に関連するデータは多岐にわたります。企業の自然関連リスク・機会評価、特にTNFD(自然関連財務情報開示タスクフォース)が推奨するLEAPアプローチにおける「評価(Evaluate)」フェーズでは、様々な種類のデータを統合的に活用することが求められます。
主なデータタイプとその役割は以下の通りです。
- 生態系に関するデータ:
- 種類: 生息地の分布、生態系の健全性(森林被覆率、湿地の状態など)、種の多様性、絶滅危惧種の分布、重要生物多様性エリア(KBA: Key Biodiversity Areas)などの空間情報。
- 役割: 企業の事業所や原材料調達地域が、生態学的に重要性の高いエリアに立地しているか、あるいは影響を及ぼしているかを特定し、物理的リスク(生態系サービスの劣化による事業継続性のリスクなど)やレピュテーションリスクを評価する上で不可欠です。公的機関による環境GISデータや、NGOが提供するデータベースなどがソースとなります。
- 環境圧力に関するデータ:
- 種類: 土地利用の変化、汚染物質の排出量、水資源の利用・汚染状況、気候変動の影響(気温上昇、水害リスクなど)、外来種の侵入に関するデータ。
- 役割: 企業の活動やサプライチェーンが、現地の生態系にどのような負荷(プレッシャー)を与えているかを評価します。例えば、工場の排水データは水質汚染リスク、原材料生産地の土地利用変化データは生息地破壊リスクの評価に繋がります。公的機関の統計データや企業の環境パフォーマンスデータ、衛星データなどが活用されます。
- 社会経済に関するデータ:
- 種類: 地域社会の慣習的な権利、紛争リスク、労働条件、地域経済の状況に関するデータ。
- 役割: 生物多様性に関連する社会的なリスク(地域社会との対立、サプライヤーにおける人権侵害など)を評価します。特にサプライチェーンにおいては、人権・社会リスクと環境リスクが密接に関連しているケースが多く見られます。人権NGOの報告書や地域社会の調査データなどが参照されます。
- 企業の活動データ:
- 種類: 事業所の立地情報、原材料の種類と調達先、生産量、廃棄物量、エネルギー・水使用量、サプライヤーリスト。
- 役割: 自社の活動が環境に与える直接的・間接的なインパクトの起点となるデータです。これらの活動データを前述の生態系・環境圧力データと組み合わせることで、具体的なリスク要因や影響範囲を特定できます。社内システムに蓄積されたデータが主なソースとなりますが、サプライチェーンデータは収集が大きな課題となります。
これらのデータは単独で存在するのではなく、相互に関連しています。例えば、特定の地域での「水資源利用量」(企業の活動データ/環境圧力データ)は、その地域の「河川の流量や水質」(生態系データ)に影響を与え、地域社会の「水アクセス」(社会経済データ)にも関わってきます。
生物多様性データの取得・管理における課題と実践
多種多様な生物多様性データを、リスク評価や戦略的意思決定に活用可能な形で取得・管理することは容易ではありません。企業が直面する主な課題は以下の通りです。
- データの断片性と標準化の不足: 生物多様性データは、研究機関、政府、NGO、企業など様々な主体から提供されており、形式や計測方法が統一されていないことが多いです。
- サプライチェーンデータの収集難易度: 特に原材料の生産地における生態系や社会経済に関する詳細なデータを、サプライヤーの多階層にわたって収集することは極めて困難です。
- 地理空間情報の取り扱い: 生物多様性データは特定の「場所」に紐づくことが多く、地理情報システム(GIS)などの専門知識やツールが必要になる場合があります。
- データの鮮度と信頼性: 生態系は常に変化しており、データの鮮度が重要です。また、データのソースや取得方法の信頼性を判断する必要があります。
- コストとアクセス: 高品質なデータや分析ツールはコストがかかる場合があり、また機密情報やアクセス制限が存在することもあります。
これらの課題に対し、企業は以下のようなアプローチを検討することができます。
- 既存データの徹底的な洗い出しと活用: 自社で保有する事業所の立地情報、調達リスト、環境パフォーマンスデータなどが、最も基本的な生物多様性リスク評価の出発点となります。まずはこれらを整理し、活用可能な形に整えます。
- 外部データベース・ツールの活用: CDP(旧称: Carbon Disclosure Project)などのプラットフォームで公開されているデータや、WCMC(世界自然保全モニタリングセンター)やIUCN(国際自然保護連合)が提供する種のレッドリストや重要生物多様性エリアのデータベースなど、信頼性の高い公開情報を活用します。また、リスク評価を支援する外部ツールの中には、地理空間データや生態系データを統合して提供するものもあります。
- サプライヤーエンゲージメントの強化: サプライヤーに対し、原材料の生産地情報や環境影響に関するデータの提供を求める仕組みを構築します。ただし、中小規模のサプライヤーにとっては負担が大きいため、段階的なアプローチや支援策も検討が必要です。
- 業界イニシアチブや連携への参加: 同業他社やNGO、研究機関などが参加するイニシアチブに参加し、共通のデータプラットフォームの構築や、データ収集・分析手法の標準化に向けた議論に貢献することも有効です。
- 専門人材の育成または外部連携: 地理空間情報分析や生態系データに関する専門知識を持つ人材を社内で育成するか、あるいは外部のコンサルタントや研究機関と連携することで、データの取得・分析能力を強化します。
データ分析とリスク評価への活用、そしてビジネスインパクトへの翻訳
データを収集・管理した後は、いかにそれを分析し、事業リスク・機会評価に繋げるかが重要です。ここでは、データ分析の視点と、ビジネスインパクトへの翻訳について解説します。
- 地理空間情報システム(GIS)の活用: 生態系データや環境圧力データの多くは、特定の地理的な場所に紐づいています。GISツールを用いることで、事業所やサプライチェーンの拠点が、水ストレスが高い地域、森林破壊が進んでいる地域、重要生物多様性エリアなどに位置しているかを視覚的に把握し、リスクの所在地を特定することが可能です。複数のデータレイヤー(例:企業拠点、森林被覆率、絶滅危惧種分布)を重ね合わせて分析することで、より詳細なリスク評価が可能となります。
- 評価フレームワークとの連携: TNFD LEAPアプローチでは、「Locate(特定)」「Evaluate(評価)」「Assess(評価)」「Prepare(準備)」のステップが推奨されています。データの取得・管理・分析は、主に「Evaluate」フェーズを支えるものです。特定の場所に紐づく活動(Locate)に対して、どのような「依存」と「インパクト」があるかをデータに基づいて「Evaluate」し、それをビジネス上のリスク・機会として「Assess」します。この際、データ分析によって得られた「特定の調達先における水不足リスクの高さ」や「新規事業所建設予定地の重要生態系への影響」といった情報を、事業継続性のリスク、コスト増加リスク、レピュテーションリスク、法規制リスクなど、企業の言語に翻訳することが求められます。
- シナリオ分析への活用: 不確実性の高い生物多様性リスクに対しては、シナリオ分析が有効です。例えば、「特定の原材料の生産地で干ばつが頻発し、生態系サービスである水供給が大幅に減少する」といったシナリオに基づき、過去のデータや予測モデルを用いて、生産量への影響、コスト増加、代替調達先の確保コストなどをデータに基づいて試算します。これにより、潜在的な財務影響をより具体的に示すことが可能になります。
- ビジネスインパクトへの翻訳: 収集・分析した専門的なデータを、経営層が理解し、意思決定に利用できる情報に変換することが最も重要なステップの一つです。
- 単に「〇〇地域の生物多様性が危機的状況にある」と報告するのではなく、「当社の主要原材料である△△の主要生産地(××地域)において、水資源の供給源となる生態系サービスが劣化しており、最新のデータ分析によれば、今後5年以内に△△の生産量が最大20%減少し、これにより原材料コストが15%増加するリスクがある」といった形で、具体的な財務的影響や事業への影響を金額や割合で示すようにします。
- リスクだけでなく、データに基づいた「機会」も提示します。例えば、「持続可能な方法で生産された代替原材料の市場規模は、近年のデータによれば年間10%成長しており、これに早期に参入することで新たな市場を開拓できる機会がある」といった形で、事業戦略への貢献可能性を示唆します。
信頼できるデータと、それを適切にビジネスインパクトに翻訳する能力は、生物多様性リスク管理を単なる環境対応で終わらせず、企業の戦略的な取り組みへと昇華させる鍵となります。
まとめ:データ駆動型アプローチによる生物多様性リスク管理の推進
生物多様性リスクは複雑で不確実性が高い側面を持ちますが、信頼できるデータを基盤としたアプローチを採用することで、その評価と管理の精度を高めることができます。
大手製造業のサステナビリティ推進担当者の皆様は、以下の点を考慮してデータ活用を推進されることを推奨します。
- 自社の事業活動とサプライチェーン全体における生物多様性への依存・インパクトを特定し、どのようなデータが必要かを明確にします。
- 社内データ、外部データベース、業界イニシアチブなど、多様なデータソースの活用可能性を探ります。
- 特にサプライチェーンにおけるデータの収集・管理には戦略的なアプローチ(サプライヤーエンゲージメント、トレーサビリティシステムの導入など)が必要です。
- GISなどの分析ツールや、外部の専門家との連携を通じて、データをリスク・機会評価に結びつける能力を強化します。
- 分析結果を単なる専門情報として終わらせず、具体的な財務的影響や事業への影響といったビジネスインパクトに翻訳し、経営層を含む社内外の関係者に分かりやすく伝えるスキルを磨きます。
データ駆動型アプローチは、生物多様性リスクを客観的かつ論理的に評価し、効果的な対策を講じるための羅針盤となります。このアプローチを強化することで、企業は生物多様性喪失がもたらす社会・経済リスクを乗り越え、持続可能な事業運営と企業価値の向上を実現できると考えられます。